2008.12.03 Wednesday
南華密教「西遊記」における『天台小止観』の意義ーその1
風水山道ブログ様で、『天台小止観』を取り上げておられます。
そこで、南華密教における『天台小止観』の意義というか、位置づけについて、張明澄先生の講義禄から抜粋してみます。
「止観」とは何か、について『西遊記』にその教義が、比喩として匿されています。
◎西遊記 第四十四回〜四十六回 車遅国の三力大仙
三蔵一行は車遅国というところにさしかかり、通行手形に判をもらおうと王宮にむかう。
※車遅国−仏法を広めることを転法輪(てぼり)という。
法輪が早く回ると仏法がよく広まる−車が遅いとは仏法が広まらないこと。
この国では数年前にひどい日照りがあり、国王は僧たちに雨乞いの祈願をさせたが効果がなく、困っているところへ虎力大仙・鹿力大仙・羊力大仙という三人の仙人がやってきて、自分たちは雨を降らせることができると言う。祈願させた結果大雨がふり、国王はすっかりこの三人を信用してしまい、役にたたない仏教にいやけがさし、寺を取り壊し僧達を重労働に追いやった。
三人の仙人たちは国師としてあがめられ、道教が国教となるいっぽう仏教は廃されてしまう。
国王は外交上の問題も考えて、三蔵一行に通行を許可しようとするが、三力仙人たちは、三蔵一行にさまざまな難題をふきかけて妨害しようとする。
雨乞い、座禅くらべ、あてものなどでいずれも悟空が仙人らに勝ち、国王は通行を許可しようとする。
が、こんどは虎力大仙が首斬りの試合をしようと言い出し、悟空が自分の首を役人に斬らせると首はごろごろ転がるが、すぐにもとに戻ってしまう。
こんどは虎力大仙の番になり、同じように首を斬ったところで、悟空は自分の毛を一本ぬいて犬に変えると虎力大仙の首をくわえてお濠の水の中にすててしまう。 虎力大仙はばったり倒れて首のない虎の死骸になってしまう。
すると今度は鹿力大仙が腹割きの術で試合しようと言い出す。悟空は先に腹を切りさいて内臓を取り出して洗い、もとどおりにしてまう。
鹿力大仙は同じように腹をさいてみせるが、悟空はまたも自分の毛を一本抜いてはげ鷹に変えると鹿力大仙の内臓をそっくりつかんで食べてしまう。すると鹿力大仙はたちまち死んでしまう。
最後に残った羊力大仙は油を煮立てた釜にはいる術で試合を申し出る。悟空は平気で油のなかにはいりでてくる。つづいて羊力大仙も油にはいるが、悟空が近づいてみると油が冷えきっている。これは羊力大仙が冷竜という竜を持っていてなんでも熱いものを冷やしてしまう。悟空は龍王を呼び出して冷竜を連れて帰させると、羊力大仙はたちまち死んで羊の天ぷらになってしまう。
もともと三人は虎・鹿・羊の化物で、国王をたぶらかしに来たものだと説明すると、国王も納得して通行許可をくれるとともに、追放した僧たちを復帰させることになった。
○孫悟空以外の三人は三力大仙に勝てない
虎=口虎(くちへんに虎)と発音が同じで、脅すということから、ここでは権勢を意味する。
経典研究者は周囲から認められると自ずから権勢を得るチャンスがでてくる。するとそれを手に入れようとする誘惑にかられる。しかし首のない虎が意味するように、権勢の誘惑に負けると自分を見失い、気がついたときにはボロボロになってなにも残っていないというようになる。戒律守持者、寺院経営者も誘惑に勝てない。 功法修行者は権勢の誘惑に負けることはほとんどない。
鹿=禄と同じ発音で、ここでは禄位を意味する。
ある程度の成果がでてくると、禄位を手にしたいという誘惑がでてくる。
しかしはらわたのない鹿が示すものは良心がないということで、禄位にしがみつくことは良心を失うということになる。
羊=揚と同じ発音で、ここでは名声を意味する。
またある程度の成果がでて回りから認められると、名声を得るチャンスが出てくる。ところがいったん手に入れた名声を失うことは、もとの自分に戻れるわけではない。宇野外務大臣が総理大臣になって二本指事件で辞めさせられると、もう外務大臣のころには戻れず、ただの平議員と同じになってしまう。
権勢や禄位は失ってももとの自分に戻れるが、名声と言うのは難しいもので一度失うと元の自分に戻ることもできない。
仏の道をある程度進むと、権勢・禄位・名声を得られるチャンスがでてくる。
本当にそれだけの実力があれば問題ないが、実力が伴わなければ維持してゆくのが困難であり、手放すまいとしがみつくようになる。
権勢に有頂天になったり、権勢を失うまいとしがみついたりしていると、自分を見失い自分を傷つけてぼろぼろになる。
禄位に有頂天になったり、禄位を失うまいとしがみついたりしていると、良心を失いひどく他人を傷つけて罪と業を重ねるようになる。
名声に有頂天になったり、名声を失うまいとしがみついたりしていると、反対にスキャンダルを引き起こし、名声がないころよりもひどい状態になる。
三人の仙人が悟空に簡単にやられてしまうのは、本物の功法修行者にとって、世の中に功法以上のものは絶対にありえないから。
功法修行者は、権勢や禄位や名声には全然魅力を感じないが、経典研究者や戒律守持者や寺院経営者にとっては非常に陥りやすい誘惑となる。
○西遊記の登場人物
経典研究者−三蔵(玄奘)
功法修行者−行者(悟空)
戒律守持者−八戒(悟能)
寺院経営者−和尚(悟浄)
それぞれが修行で出会ういろいろな障害を、化物や妖怪に例えている。
○止と観と止観
三蔵=経・律・論
経−直接お釈迦様が話した形態をとっているもの
律−戒律
論−お釈迦様以外の偉い仏教学者が書いたもの
天台宗 天台智據覆舛)『天台小止観』
具縁−修行する前に金を用意しないと修行できない−お金とえにしをつくれ
貧乏なのに大成した人−生まれつき違う条件を持っている
『天台小止観』序 前段
夫泥洹真法 入乃多途 それねはんの真法は 入るにすなわちみちは多けれど
論其急要 不出止観二法 その急要を論ずれば 止と観との二法を出ず
所以然者 しかるに所以の者は
止乃伏穴之初門 止すなわち伏穴の初門
観亦断惑之正要 観また断惑の正要
止則愛養心識之善資 止はすなわち心識を愛養するの善資
観則策発神解之妙術 観はすなわちしんげを策発するの妙術
止是禅定之勝因 止はこれ禅定の勝因
観是智慧之由籍 観はこれ智慧の由籍
泥洹=涅槃(ねはん)−煩悩の火を消し切った完全なさとりの境地
止観=止は外側のいろいろな現象に動かされないで心をひとつの対象に集中する。観は存在と現象の真相を観察する−沖縄問題の真相はなにか?など
伏=征伏−押さえ込む
穴=煩悩・コンプレックス
心識=心や意識
愛養=いとしみ育てる 「養」はそだてる意味の方が多い
策発=啓発する(策は馬に鞭をあてる)
神解=ものごとの存在や現象に関する神のような最高の理解
禅定−禅=静かに考える
定=心をひとつの対象に集中して散乱させない=三昧
一般に「禅」と言っているのは禅定のこと
勝因=すぐれた原因
由籍=よりどころ
○意味
もともと悟りにいたる本当の方法は、入るのに多くの道がありますが、そのなかの一番大切なことについて言えば、止と観のふたつの方法の他にはありません。
なぜかと言えば、止は煩悩を征服する第一歩、観は迷いや惑いを断つ正しくて大切な修行方法であるからです。
止は心や意識をいとしんで育てる良い糧であります。
観はものごとの存在や現象に対する最高の理解を啓発するすばらしい方法です。 止はもともと静かに考えることによって、心をひとつの対象に集中して散乱させないすぐれた根源であり、観はもともと智慧のよりどころであります。
天台智據櫃気箸蠅砲い燭詈法は『止観』以外にない
『止観』というのは、心をただひとつの対象に集中してその真相を観察すること。 しかしそのとき心が乱れていたら観察はゆがんでしまう。
存在と現象の真相をじっくり観察することは迷いや惑いに勝つ大切な修行法であり、最高の理解を啓発する認識法。
権勢・禄位・名声からの誘惑や執着に迷わない方法は、正に『止観』
これらから得られるメリットばかり見ないで、これらそのものの存在と現象の真相をしっかり観察する。
自分にしかできないことや、他人のやらない分野では権勢や禄位を得ても他人からひきずり下ろされることがない。
誰もが欲しがる地位でも、人から請われてついたときは引き摺り下ろされない。
橋本龍太郎が首相になったら女性問題が噴出する。
海部首相はあれだけ無能でも長期政権になった。
日本では面が割れてしまうともう幸福な生活はできない。
テレビには出ないこと。この社会ではニュースソースになったらおしまい。
『止観』すれば、権勢・禄位・名声などにはすこしも魅力を感じない。
最近の、安倍さん、福田さん、麻生さんはどうでしょう?
福田さん以外は分かり易いですね。
福田さんの場合は、海部さんとは時代が違う、ということでしょうか。
<次回に続く>
そこで、南華密教における『天台小止観』の意義というか、位置づけについて、張明澄先生の講義禄から抜粋してみます。
「止観」とは何か、について『西遊記』にその教義が、比喩として匿されています。
◎西遊記 第四十四回〜四十六回 車遅国の三力大仙
三蔵一行は車遅国というところにさしかかり、通行手形に判をもらおうと王宮にむかう。
※車遅国−仏法を広めることを転法輪(てぼり)という。
法輪が早く回ると仏法がよく広まる−車が遅いとは仏法が広まらないこと。
この国では数年前にひどい日照りがあり、国王は僧たちに雨乞いの祈願をさせたが効果がなく、困っているところへ虎力大仙・鹿力大仙・羊力大仙という三人の仙人がやってきて、自分たちは雨を降らせることができると言う。祈願させた結果大雨がふり、国王はすっかりこの三人を信用してしまい、役にたたない仏教にいやけがさし、寺を取り壊し僧達を重労働に追いやった。
三人の仙人たちは国師としてあがめられ、道教が国教となるいっぽう仏教は廃されてしまう。
国王は外交上の問題も考えて、三蔵一行に通行を許可しようとするが、三力仙人たちは、三蔵一行にさまざまな難題をふきかけて妨害しようとする。
雨乞い、座禅くらべ、あてものなどでいずれも悟空が仙人らに勝ち、国王は通行を許可しようとする。
が、こんどは虎力大仙が首斬りの試合をしようと言い出し、悟空が自分の首を役人に斬らせると首はごろごろ転がるが、すぐにもとに戻ってしまう。
こんどは虎力大仙の番になり、同じように首を斬ったところで、悟空は自分の毛を一本ぬいて犬に変えると虎力大仙の首をくわえてお濠の水の中にすててしまう。 虎力大仙はばったり倒れて首のない虎の死骸になってしまう。
すると今度は鹿力大仙が腹割きの術で試合しようと言い出す。悟空は先に腹を切りさいて内臓を取り出して洗い、もとどおりにしてまう。
鹿力大仙は同じように腹をさいてみせるが、悟空はまたも自分の毛を一本抜いてはげ鷹に変えると鹿力大仙の内臓をそっくりつかんで食べてしまう。すると鹿力大仙はたちまち死んでしまう。
最後に残った羊力大仙は油を煮立てた釜にはいる術で試合を申し出る。悟空は平気で油のなかにはいりでてくる。つづいて羊力大仙も油にはいるが、悟空が近づいてみると油が冷えきっている。これは羊力大仙が冷竜という竜を持っていてなんでも熱いものを冷やしてしまう。悟空は龍王を呼び出して冷竜を連れて帰させると、羊力大仙はたちまち死んで羊の天ぷらになってしまう。
もともと三人は虎・鹿・羊の化物で、国王をたぶらかしに来たものだと説明すると、国王も納得して通行許可をくれるとともに、追放した僧たちを復帰させることになった。
○孫悟空以外の三人は三力大仙に勝てない
虎=口虎(くちへんに虎)と発音が同じで、脅すということから、ここでは権勢を意味する。
経典研究者は周囲から認められると自ずから権勢を得るチャンスがでてくる。するとそれを手に入れようとする誘惑にかられる。しかし首のない虎が意味するように、権勢の誘惑に負けると自分を見失い、気がついたときにはボロボロになってなにも残っていないというようになる。戒律守持者、寺院経営者も誘惑に勝てない。 功法修行者は権勢の誘惑に負けることはほとんどない。
鹿=禄と同じ発音で、ここでは禄位を意味する。
ある程度の成果がでてくると、禄位を手にしたいという誘惑がでてくる。
しかしはらわたのない鹿が示すものは良心がないということで、禄位にしがみつくことは良心を失うということになる。
羊=揚と同じ発音で、ここでは名声を意味する。
またある程度の成果がでて回りから認められると、名声を得るチャンスが出てくる。ところがいったん手に入れた名声を失うことは、もとの自分に戻れるわけではない。宇野外務大臣が総理大臣になって二本指事件で辞めさせられると、もう外務大臣のころには戻れず、ただの平議員と同じになってしまう。
権勢や禄位は失ってももとの自分に戻れるが、名声と言うのは難しいもので一度失うと元の自分に戻ることもできない。
仏の道をある程度進むと、権勢・禄位・名声を得られるチャンスがでてくる。
本当にそれだけの実力があれば問題ないが、実力が伴わなければ維持してゆくのが困難であり、手放すまいとしがみつくようになる。
権勢に有頂天になったり、権勢を失うまいとしがみついたりしていると、自分を見失い自分を傷つけてぼろぼろになる。
禄位に有頂天になったり、禄位を失うまいとしがみついたりしていると、良心を失いひどく他人を傷つけて罪と業を重ねるようになる。
名声に有頂天になったり、名声を失うまいとしがみついたりしていると、反対にスキャンダルを引き起こし、名声がないころよりもひどい状態になる。
三人の仙人が悟空に簡単にやられてしまうのは、本物の功法修行者にとって、世の中に功法以上のものは絶対にありえないから。
功法修行者は、権勢や禄位や名声には全然魅力を感じないが、経典研究者や戒律守持者や寺院経営者にとっては非常に陥りやすい誘惑となる。
○西遊記の登場人物
経典研究者−三蔵(玄奘)
功法修行者−行者(悟空)
戒律守持者−八戒(悟能)
寺院経営者−和尚(悟浄)
それぞれが修行で出会ういろいろな障害を、化物や妖怪に例えている。
○止と観と止観
三蔵=経・律・論
経−直接お釈迦様が話した形態をとっているもの
律−戒律
論−お釈迦様以外の偉い仏教学者が書いたもの
天台宗 天台智據覆舛)『天台小止観』
具縁−修行する前に金を用意しないと修行できない−お金とえにしをつくれ
貧乏なのに大成した人−生まれつき違う条件を持っている
『天台小止観』序 前段
夫泥洹真法 入乃多途 それねはんの真法は 入るにすなわちみちは多けれど
論其急要 不出止観二法 その急要を論ずれば 止と観との二法を出ず
所以然者 しかるに所以の者は
止乃伏穴之初門 止すなわち伏穴の初門
観亦断惑之正要 観また断惑の正要
止則愛養心識之善資 止はすなわち心識を愛養するの善資
観則策発神解之妙術 観はすなわちしんげを策発するの妙術
止是禅定之勝因 止はこれ禅定の勝因
観是智慧之由籍 観はこれ智慧の由籍
泥洹=涅槃(ねはん)−煩悩の火を消し切った完全なさとりの境地
止観=止は外側のいろいろな現象に動かされないで心をひとつの対象に集中する。観は存在と現象の真相を観察する−沖縄問題の真相はなにか?など
伏=征伏−押さえ込む
穴=煩悩・コンプレックス
心識=心や意識
愛養=いとしみ育てる 「養」はそだてる意味の方が多い
策発=啓発する(策は馬に鞭をあてる)
神解=ものごとの存在や現象に関する神のような最高の理解
禅定−禅=静かに考える
定=心をひとつの対象に集中して散乱させない=三昧
一般に「禅」と言っているのは禅定のこと
勝因=すぐれた原因
由籍=よりどころ
○意味
もともと悟りにいたる本当の方法は、入るのに多くの道がありますが、そのなかの一番大切なことについて言えば、止と観のふたつの方法の他にはありません。
なぜかと言えば、止は煩悩を征服する第一歩、観は迷いや惑いを断つ正しくて大切な修行方法であるからです。
止は心や意識をいとしんで育てる良い糧であります。
観はものごとの存在や現象に対する最高の理解を啓発するすばらしい方法です。 止はもともと静かに考えることによって、心をひとつの対象に集中して散乱させないすぐれた根源であり、観はもともと智慧のよりどころであります。
天台智據櫃気箸蠅砲い燭詈法は『止観』以外にない
『止観』というのは、心をただひとつの対象に集中してその真相を観察すること。 しかしそのとき心が乱れていたら観察はゆがんでしまう。
存在と現象の真相をじっくり観察することは迷いや惑いに勝つ大切な修行法であり、最高の理解を啓発する認識法。
権勢・禄位・名声からの誘惑や執着に迷わない方法は、正に『止観』
これらから得られるメリットばかり見ないで、これらそのものの存在と現象の真相をしっかり観察する。
自分にしかできないことや、他人のやらない分野では権勢や禄位を得ても他人からひきずり下ろされることがない。
誰もが欲しがる地位でも、人から請われてついたときは引き摺り下ろされない。
橋本龍太郎が首相になったら女性問題が噴出する。
海部首相はあれだけ無能でも長期政権になった。
日本では面が割れてしまうともう幸福な生活はできない。
テレビには出ないこと。この社会ではニュースソースになったらおしまい。
『止観』すれば、権勢・禄位・名声などにはすこしも魅力を感じない。
最近の、安倍さん、福田さん、麻生さんはどうでしょう?
福田さん以外は分かり易いですね。
福田さんの場合は、海部さんとは時代が違う、ということでしょうか。
<次回に続く>

