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 中国の占術・道教・仏教・小周天・内火・守護仏・宝石・西遊記などについて不定期で更新していきます。
 占いや宗教などに関心がある方、ぜひ見てください。
 
『般若心経は間違い?』の間違い (十五)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)

157頁〜

第四章 無我問答 

どういうわけで無我なのか?     「悪魔」とは何か
「魔」には五つの意味がある
神は、心のエネルギーのレベルで生きる生命 
修行者の心の振動はトップレベル
悪魔は「私たちの代弁者」   悪魔は「仏教を攻撃する人々」
出家の生活  悪魔が阿羅漢の禅定を妨げる  悪魔のすごい質問
ヴァジラー比丘尼が悪魔だと見抜く
「ある」と言えるものは、どこにもない  しょせんは「世間の合意」
五蘊/ч勝rupa kkhandha ルーパ・カンダ)は、肉体を構成する物質
五蘊⊆蘊(vedana kkhandha ヴェーダナー・カンダ)は、六つの感覚五蘊A梔勝sanna kkhandha サンニャー・カンダ)は、感覚から生じる概念
五蘊す夂勝sankhara kkhandha サンカーラ・カンダ)は、「したい」という衝動
五蘊ゼ演勝vinnana kkhandha ヴィンヤーナ・カンダ)は、認識
頭をサンニャーでいっぱいにすることはない   
五蘊の無常は、たとえようがない
永遠不滅の魂はありえない  感じるから生命  見える光しか見えない
「感覚の楽」は「感覚の苦が消えること」    苦\犬ることは苦
最高の幸福は、不幸のどん底で   涅槃に入るとつまらない?
苦しみがないと幸せを感じない   苦現象があっという間に消えること
生命は成り立たない      自分自身の思考こそ「悪魔」
「思考する」なら「まだまだ馬鹿」  阿羅漢には「自分」がない

 

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| 仏教 | 05:17 | comments(9) | trackbacks(0) |
『般若心経は間違い?』の間違い (十四)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)

 修行を忘れて観念論に走る人々は、「一切衆生はもともとから仏性を持っている」とか、如来蔵であるとか、本覚であるとか、本来悟っているとか、哲学っぽいこと、知識っぽいことをいいたがるのです。言っているのは偉いお坊さんですが、「では、なぜあなたは出家しているのですか?」と聞きたくなります。・・・・・・・・・・・・・・・
 仏道は進化の道であって、人格完成の道であって、悟りに達する道なのです。空だけをハイライトして論じることで、それが壊れます。だから初期仏教では真理として「空である」とはっきり言うのですが、けっして「空論」は展開しないのです。
 パーリ経典には、中部経典の『大空性経』『小空性経』など、空の瞑想を説いた経典がいくつかあります。空を知るためには、哲学思想を組み立てるのではなく、瞑想を通して体験しなければいけないのです。結局、「空だ」と言っても誰にもそれがわかるわけがない。だから修行して空を発見するのです。体験するのです。発見するべきもの、体験するべきものについては、語れないはずです。
 だから、悟り・涅槃・解脱については語れない。語る単語すらないのです。
 無常については語れます。現象は無常ですから、私たちは日常生活で経験する無常を頭で理解できます。ただそれで真理を理解したことにはならないのです。なおさらに修行して、瞑想して、智慧を開発して、「一切は無常である」と発見しなくてはならないのです。
 無常を語ることができるならば、空も現象の説明だから、同じように語れるのではないかと思うかもしれません。しかし、「空について語る」ということはまったく成り立たないのです。言葉をいれたらもう「空 sunna」ではないのですから。空について概念を作ったら、もうとっくに空ではないのです。「空について語る」なんてことは、先ほど触れたように「空」をヒンドゥー教的な実体論の言換えにおとしめない限り不可能なのです。
(P.141〜143)
 

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| 仏教 | 10:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
『般若心経は間違い?』の間違い (十三)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)

 困ったことに『般若心経』は、仏教用語を使いながら仏教用語の意味をわかっていないのです。それは「色即是空。空即是色」のくだりからも明らかです。
 「色即是空」は正しいのです。「色は空であると観なさい」とパーリ経典にもあります。
 では、「空即是色」ってなんでしょうか?これはどうしても、大乗仏教の世界からみたって成り立たない話です。
 大乗仏教で一般的に言われている「空」とは、真理そのものであって、超越した何かの存在なのです。大日如来とか久遠佛とか、法身如来とか、宇宙全体の実体たる真理で、そこからすべてが流出してくる。ヒンドゥー教のアートマン、ブラフマンという観念と大乗仏教の「空」の観念はかなり似通った、区別できないものになっています。
 しかしそれは、大乗仏教のカリスマ・龍樹が発見した「空」ではないのです。
 龍樹はただ、「物事は相対的であって実体は成り立たない」と論理的に緻密な哲学を構築しただけで、「空たる真理が存在する」とはけっして言わなかったのです。
 しかし大乗仏教が発展していくうえで、空は真理・実体そのものになっていきました。
 けれど龍樹の「空」は言うまでもなく、そういう実体化された「空」の立場からみたとしても、『般若心経』に書いてあることは間違っています。
 「リンゴは果物である」というのは正しいのですが、「したがって果物はリンゴである」というのはおかしいのです。そういうふうに言葉を使ってはいけないのですが、『般若心経』の作者はそれも理解していないのです。
 それだけではありません。「色即是空」と言ったのは正しいのに、自分でそれを理解していない。「色受想行識は空である」と言ったのは正しいのに、やはり理解していない。理解していないから、「空と色は同じもので全然変わりはない」などと言うのです。しかも何度もいうのです。これはすごく滑稽です。間違ったことを何度も発表できるのは、わかっていないからなのです。

(P.136〜137)
 
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| 仏教 | 00:03 | comments(2) | trackbacks(0) |
『般若心経は間違い?』の間違い (十二)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)

 118頁より

第三章 生き方を語る仏教


「モーガラージャ経」        死を乗り越えるための世界の見方
「シーラ教」            五蘊の観察リスト十一
無常・苦・無我のどれかを発見する  実践的な空論
気づきで「空=無価値」を発見する  修行が完成しても空を生きる
大乗仏教と初期仏教の空論      事実が役に立つとは限らない
生き方を習っているか?       龍樹の空論と空即是色
無を使ったら空論は成りたたない   空ではなく無常を語れ
愚者の機嫌を取る          空は語れない 
大乗仏教は何も発見していない    唯識論の間違い
大乗仏教優位論は成りたたない    弥勒菩薩の伝説
お釈迦さまは分析主義者       真理は常に輝いている
仏教徒という誇り          仏教は原理主義でないと危険
仏教徒の誇りを取り戻す

 
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| 仏教 | 11:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
『般若心経は間違い?』の間違い (十一)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)


 109頁より

 語るなら、何か人間のアドバイスになるもの、実践できるものを語らなければならないのです。・・・・・
 地球の重さをグラム単位で量ったり、一日に地球の重さがこれぐらい増えるとか減るとかグラム単位で計算したって、「だから何?」という話です。無駄話です。
 しかし、役に立つ話は無駄話ではありません。
 たとえば「雷というのは神様ではない。雲の中に静電気が溜まって、いちばん放電しやすいところで放電しているのだ。という科学者の意見は、道徳的なのです。なぜなら、雷の発生メカニズムがわかれば、どんな場所に逃げればよいか知ることができるからです。
すごく間接的かもしれませんが、身を守る生き方を教えているのです。真理の説明はなんらかの形で学ぶ人にとって役に立つものなのです。

 
 スマナサーラ長老は、「仏教は心の科学」と仰る割には、「科学ぎらい」のようです。

 「雷」については、1752年、アメリカの政治家で科学者のベンジャミン・フランクリンが、「凧」を使って、「雷」が「静電気」で起ることを確かめました。
 「雷」が「静電気」であることが分かったため、人類は「雷」の被害からずいぶんと解放されました。「避雷針」の発明です。
 一般的に「避雷針」は、「アース」することによって、「雷」の電気を地下に逃がすものと思われています。それも間違いではありませんが、実は、「避雷針」には、「静電気的シールド」という原理により、「雷」の発生を抑制する働きがあるのです。


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| 仏教 | 14:34 | comments(5) | - |
『般若心経は間違い?』の間違い (十)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)


 それでは、漢訳『般若心経』の原文で、もう一度おさらいしてみましょう。


 観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。
 照見五蘊皆空。度一切苦厄。
 舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
 舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
 是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。



 『般若心経』では、「五蘊皆空」とはいっていますが、「一切皆空」とは言っていません。
 「五蘊」とは「人間であることの五つの要素」というような意味で、「色・受・想・行・識」に分かれます。
 この「五つの要素」は、それぞれに同じ比重を占めているかというと、『般若心経』では、明らかに異なった扱いをしています。
 つまり、「色」だけを取り出して「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色」と、懇ろに扱いながら、「受想行識」はひとまとめにして「亦復如是」とされています。
 「色」と「受想行識」を分けて見るのは、後で出てくる「無色。無受想行識」も同様であり、つまり、「色」というソロと「受想行識」カルテットは、対等と看做されていることになります。


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| 仏教 | 21:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
『般若心経は間違い?』の間違い (九)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)

 99頁〜



説般若波羅蜜多咒。即説咒曰。
 揭帝 揭帝 波羅揭帝 波羅僧揭帝 菩提僧莎訶
般若波羅蜜多心經

般若波羅蜜多なる咒を説く。すなわち咒を説いていわく、    
 揭帝 揭帝 波羅揭帝 波羅僧揭帝 菩提僧莎訶


『般若心経』の真言は不完全
『般若心経』の作者も真剣ではなかった?
中身の勉強は不要
理論、実践、向上への躾が必要
ブッダの経典には隙がない
矛盾のない言葉は一切智者にしか語れない
龍樹の失敗
「どう生きるべきか?」が欠けた教え
人格向上のための道具を捨てるのか
日常生活での般若波羅密の実践法
無常だから夫婦仲良く親孝行
苦集滅道を発見するのが智慧


 ・・・パーラガテーは、「あっちへ行ってしまった」。
 ・・・パーラサンガテーは、「まったく消えてしまった」でしょうか。それでも正しい訳とはいえません。サンスクリット語を知っている人にもそんなに意味がとれないのですが、呪文に意味があってはいけないのです。 
(P.100)

 長老には意味がとれないというので、一応、標準的な解釈と思われる訳をあげておきます。

 往く者よ、彼岸に往く者よ、彼岸に渡れ、彼岸に渡れ! 
 彼岸にいたれば幸多し。


 

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| 仏教 | 01:24 | comments(11) | trackbacks(0) |
『般若心経は間違い?』の間違い (八)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)

 87頁〜


第二章 呪文と真実語


故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。是無常咒。是無等等咒。能除一切苦。真実。不虚故。

ゆえに知るべし、般若波羅蜜多は、これ大神呪咒なり、これ大明咒なり、これ無上咒なり、これ無等等咒なり、よく一切の苦を除き、真実なり、虚ろならざるがゆえに、と。

空論→虚無主義→神秘主義
宗教は呪文願望を支えてはならない
仏教は祝福する
お釈迦さまを元気づけた「呪文」
意味のある言葉に力がある
呪文には力がない


 驚きました。なんの脈絡もなく「これがすごい呪文である」と宣言したのです。 
 こうなってくるともう、迷信依存症の人々に語っていることになります。呪文やら方位やら風水やら八卦占いやら、タロット占いやら、そんな程度の非科学的な占いを信じている人に語っていることになってしまうのです。・
 『般若心経』を書いた人がすごい真理を語っていると思うならば、なぜ呪文で終わるのでしょう?呪文で済むなら、ブッダの言葉を持ち出して逐一否定することはなかったでしょうに。それなのに「般若波羅蜜によって悟りますよ」とも言っているのです。
(P.88〜89)

 スマナサーラ氏は、密教関連の知識がよほど不足しているらしく、占術や呪文が、密教ではどのような扱いになっているかも、全く知らないようです。
 風水や八卦占いについても、女性週間誌程度の知識と見られ、「そんな程度の非科学的な占い」などと軽蔑しているのですが、自分の知らないことに対して極め付けるのは、いかがなものでしょうか。


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| 仏教 | 18:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
『般若心経は間違い?』の間違い (七)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)

 82〜85頁


 以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離[一切]顛倒夢想。究境涅槃。
三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
得るところなきをもってのゆえに、菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙なし。罣礙なきがゆえに、恐怖あることなく、[一切の]顛倒夢想を遠離して、涅槃を究境す。
三世のもろもろの仏も、般若波羅蜜多に依るがゆえに、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。


弟子に守られる師匠
仏教経典は修行の方法を語るべき


 「菩薩たちは現象の世界でよりどころにするものがないから、その心は障りなくいられるのだ。恐怖なく顛倒なくいられるのだ。三世の諸仏も般若波羅蜜多によって阿耨多羅三藐三菩提(この上なき正しき悟り)を得ているのだ」という意味です。
 この二行はブッダの教えに照らしても間違いありません。一切は空であると観ると、心には何も引っかかるものはなくなります。一切は空であると悟ることによって解脱します。
(P.83)

 「一切皆空」は「中観派」の主張かと思ったら、何と「上座部」でも同じ考え方とは知りませんでした。



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『般若心経は間違い?』の間違い (六)
『般若心経は間違い?』(宝島社新書)

 
 十二因縁は、私という存在についての因縁(因果)論による説明です。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・
 お釈迦様が、「生きる苦しみは、このようなシステムで成り立っている」と、公式でもって説明したのです。
 十二因縁で「私はどうすればいいか」が明確にわかります。・・・・
 こういう存在の分析はブッダしかやっていないのですから、人間が知るはずもありません。・・・・・・・
 無明があって物事を認識しようとする(行)。認識が(識)が生命(名色)の眼耳鼻舌身意(六処)それぞれに生まれる。ものに触れる(触)と感覚(受)が生まれる。・・・・そうやって渇愛(愛)が生まれて、執着(取)が生まれて、さらにこの存在(有)が続いていってしまう(生)のです。それで人間の生老病死(老死)という苦しみが延々と成り立っているのです。 
 十二因縁は生起論と滅尽論がセットです。無明がなくなれば行もなくなる、行がなくなれば識もなくなるー、という滅尽論もあるのです。これによって、私という存在が、苦しみの世界から脱出して解脱に達する道筋が明らかになったのです。
(P.78)


 「人間が知るはずもありません」というのも驚くべき発言ですが・・・
 スマナサーラ長老の捉え方では、「十二縁起」は、一人の人間が生まれてから死ぬまでのようになっています。
 すると、「無明」が無くなれば、「行」も「識」も無くなる、というのは、ただ「生まれてこなければよかった」と言っているようなものです。
 “十二因縁で「私はどうすればいいか」が明確にわかります”と言いますが、さっぱりわかりません。

 「十二縁起」については、"十二縁起ー空と疎外−「悟り」へ”をお読みください。 


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